ムッシュ雅章の短文

−看護師さん、ありがとう。−

だ平成20年の頃、T病院のことです。私はベッドの上で泣いていました。
“どうして失語症になったんだろう?左片麻痺になったのだろう?てんかんになったのだろう?”と・・・。

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私はある出版社で編集者をしていました。毎日忙しく残業のない日はなかったと思います。多い時で、一か月約200時間ぐらいの残業をしていました。

平成19年10月16日、ある作家のマネージャーと仕事の打合せをし、一旦、出版社に戻りました。17日の午前3時ぐらいのころです。他の編集者には「もう疲れたので、私のマンションに帰って寝てくる」と言って、タクシーに乗りました。

自宅マンション近くのコンビニまできた時、飲み物が欲しくなったので、タクシーを降りてジュースを買って飲みながらマンションに帰りました。そしてドアの鍵を開け、内側から鍵をかけたとたん、
“頭が痛い!”
もう頭が痛くて痛くて、途端に私の方から倒れ、わからなくなりました。

平成19年10月25日、気が付いた時はベッドにいました。病名は“くも膜下出血”。出版社の先輩が発見。救急車でO病院に直行。緊急手術を受けました。しかし手術のあと、ベッドの上で私は何がなんだかよくわかっていませんでした。

平成19年12月3日、T病院に転院、リハビリを開始しました。その際に私の体がだんだんとわかってきました。“くも膜下出血”で手術をしたあと意識は徐々に改善しましたが、“失語症・左片麻痺・高次能機能障害(注意障害・遂行能力障害・近時の記憶障害)があることがわかりました。また、看護師さん達が風呂を手伝っている時、私が急に“てんかん”を発症したことがわかりました。

私は茫然としました。“てんかん”って何?“失語症”って何?“左片麻痺”って何?“高次能機能障害”って何?何がなんだかよくわかりませんでした。それに病院専用の車いすが用意してあるなんて・・・。私は泣きました。

それからT病院で毎日毎日、理学療法・作業療法・言語療法を訓練して、また自主的に勉強(と言っても小学1年用漢字練習をしましたが)もしました。

ただ、訓練をしたあとベッドに戻り、また泣いていました。“復帰してやる”と思ったり、また“一生このままなのか?”“左片麻痺で、失語症で、てんかんで、そんなの絶対やだ!”と思ったり・・・。私は3階のフロアで、車いすを使ってボーっとしていました。

と同時に女性のある看護師さんが立っていました。きっと私のことを心配になってしまったのでしょう。

その時です。病室からある人々が泣いている声が聞こえてきました。病室にはひとり、患者がいるだけ。

その看護師さんはその患者にたいして、礼をしました。
「看護師さん、ひょっとしてあの人は・・・」
「そうよ、いま亡くなってしまったのよ」
私はただただ驚いてしまいました。

看護師さんは「あなたは運がいいんだわ。医師が手術の後で家族に“五分五分ですね・・・”と言ったけど、それでも生きている。失語症でも生きている。○○さん(←ムッシュ雅章のこと)、生きなさい。そこに希望があるし、それがあなたの運命なのよ」と、そんなことを言ったような気がしました。

平成24年3月、出版社に復帰しよう、復帰しようと思っていたのですが、夢かなわず、出版社を辞め、平成24年4月“NPO法人みんなのセンターおむすびときわの杜”に通いました。(ときわの杜とは、高次能機能障がい、難病者の福祉作業所です)

そして平成29年3月下旬、“くも膜下出血”になって約10年がたちます。左片麻痺はだんだん細くなり、杖をつきますが、車いす無しで歩いています(現在では)。また“失語症”と“高次能機能障害”は徐々に治っています。(と言っても10年前は0%、今は1年毎に薄い紙1枚良くなる程度ですが・・・)

それに、ときわの杜の他に、失語症者のための“おしゃべりの会”に通っています。それに、“東京版・若い失語症のつどい”や“埼玉県・若い失語症のつどい”も参加と、結構忙しくやってます。

ただ、悲しいとき、悔しいとき、涙がでるときには、あの看護師さんの“生きなさい。そこに希望があるし、それがあなたの運命なのよ”を胸に、一歩一歩、あるいていこうと思います。

看護師さん、ありがとうございました。